歩きながら朗読で聴く『罪と罰』の魅力

読書

最近、買い物や散歩のときに、ドストエフスキーの『罪と罰』の朗読を聴いています。

スーパーへ向かう道や、散歩の途中。
ただ歩いているだけの時間に、ラスコーリニコフの不安や焦りが耳に流れ込んでくる。

日常の中に、あの重たい物語が少しずつ入り込んでくる感じがあって、なんとも不思議です。

『罪と罰』は、大昔に読んだはずの作品です。
けれど、内容はほとんど忘れていました。

有名な場面や、なんとなくの雰囲気は覚えている。
でも、細かい流れや人物の心の動きまでは、ほとんど記憶から抜け落ちている。

だから今、朗読で聴き直していると、再読というより、ほとんど初めて触れているような新鮮さがあります。

ドストエフスキーの小説って、文字で読むとかなり重たい。
文章も濃いし、心理描写も深いし、簡単に読み流せる感じではありません。

ページを開くだけで、少し覚悟がいる。

でも、耳で聴くと不思議と入りやすいんです。

歩きながら、買い物をしながら、少しずつ物語が進んでいく。
自分からぐいぐい読みにいくというより、声に導かれて作品の中へ入っていく感じ。

重たい物語なのに、朗読だと自然に受け取れる。
これはちょっと意外でした。

しかも、米川正夫の翻訳の少し古めかしい文体がとてもいい。

今の文章に比べると、少し硬さがある。
言葉づかいにも時代を感じる。
でも、その古さが『罪と罰』の空気にピタリと合っています。

なめらかで読みやすい現代語とは違って、言葉のひとつひとつに重みがある。
簡単には流れていかない。
耳で聴いていても、文章がこちらに引っかかってくる。

その引っかかりが、ドストエフスキーの描く不安や罪悪感、息苦しさと重なって、作品の世界をより濃くしている気がします。

そんなふうに少しずつ聴き進めていて、今日は『罪と罰』の「殺人」シーンを聴きました。

あらためて、重い。

事件そのものも大きいけれど、そこへ向かっていくまでの心理がとにかく苦しい。
迷い、不安、正当化しようとする心、逃げたい気持ち。
そういうものが積み重なっていく。

ただ「殺人が起きる」という場面ではなく、人間の内側が少しずつ壊れていくような怖さがありました。

耳で聴いていると、その息苦しさがさらに近く感じられます。
文字なら一度止まって息をつくこともできるけれど、朗読では声が流れてくる。
その声に乗って、ラスコーリニコフの追い詰められた空気がそのまま入ってくる。

これは大きな場面を聴いたな、と思いました。

そして、ふと思ったんです。

もう物語の半分くらいまで来たかな、と。

殺人事件のシーンまで来たのだから、ここがひとつの大きな山場なのだろう。
ここから先は、その後の展開に入っていくのだろう。
そんなふうに勝手に思っていました。

ところが、確認してみたら、全然そんなことはありませんでした。

ようやく第一部が終わるところ。

まだ第一部。
しかも『罪と罰』は全部で6部あります。
さらにその後にエピローグまである。

まったく半分ではありませんでした。

ここまで濃密に描いておいて、まだ第一部の終わり。
まだまだ序の口。

思わず笑ってしまいました。
いや、笑うしかないという感じです。

ドストエフスキー、恐るべし。

人間の罪悪感や不安、理屈ではどうにもならない心の揺れを、ここまで執拗に描くのか。
しかも、それがまだ物語の入口にすぎないのか。

そう思うと、作品の大きさに圧倒されます。

でも、不思議と嫌ではありません。
重いのに、苦しいのに、先が気になる。

この先、ラスコーリニコフはどうなっていくのか。
罪の意識とどう向き合うのか。
どこまで追い詰められて、どこへたどり着くのか。

クライマックスは何なのか。

前の記憶は吹っ飛んでいます。

 

買い物や散歩の時間に聴くには、ずいぶん重たい物語です。
でも、日常の隙間にこういう大きな文学が入り込んでくるのも、朗読ならではの面白さなのかもしれません。

まだ第一部が終わったところ。

ここから先、どこまで連れて行かれるのか。
少し怖くもあり、楽しみでもあります。

ドストエフスキー、恐るべし。
そして米川訳、やっぱりいい。

 

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